2009年07月24日

REPORT 95 ミッション・コンプリート

 終わりました!
 とりあえず、完成でございます!
 しかも、予定通り、某社の当社担当の方との打ち合わせも登録も滞りなく終わり、この分だと遅くとも8月4日より起死回生の広告掲載でございます!
 いやー、よくやった、自分。
 がんばったなー、自分。
 よく死なないなー、自分。
 きっと、合間合間に皆様と交流があり、息抜きが要所要所でできているからだと思います。
 それにしても、良かった。コンプリート。
 あとは交渉などは来週だ。週末の偉大さがようやくわかった次第でございます。
 明日一日は絶対に絶対に休んでやる!と、思いつつ、なんだかんだで仕事するんだろうなーと思っているのであります。
 
 あ、いっけねー、飯食うの忘れてた。
 たしか、朝起きてからカップラーメンとバナナしか食ってない。
 さて、仕事も終わったことだし、飯食おうっと!
 今日は死ぬほど寝よっと、と体はふらふらながら気分は達成感でいっぱいでございます。
 
 ちなみに、新サービス「エバーストーリー」の専用ホームページをアップしました。
 突貫工事でなんとかここまで仕上げましたが、あと一週間ほどで更にコンテンツを充実させます。
 広告が配信されるまでは何とかすごいことにしてやろうと思っております。
 見た感じのご意見あれば、メールなどでよろしくおねがいします。
 
 ↓「エバーストーリー」ホームページ
  http://tokyoprizeagency.com/everstory/
 
 ↓ メール
 t-miura@tokyoprizeagency.com
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2009年07月23日

REPORT 94 ふたつのスピカ

 最近のNHK、どうしっちゃったんでしょう。
 やけに面白いです。桁違いに面白いです。敵無しで面白いです。
 ソフト制作能力が、今抜きんでているのは、間違いなくNHK。
 いや、本当にどうしちゃったんでしょう。
 
 と、いうか、僕にクリティカル・ヒットな作品が、たまたま多かっただけでしょうか。
 『ハゲタカ』なんて、僕はもう見るのが三週目です。
 『ふたつのスピカ』なんて、毎週、泣きながら見ています。
 今も、友人と飯を食う約束をしているので、その前にちょこっと見たんですが、号泣です。やばい、目が腫れる。こんな怪しい風体して、しかも目を腫らしてたんじゃ、職務質問だな、確実(笑)。
 
 『ふたつのスピカ』の主人公達は宇宙を目指して頑張ります。
 本気で宇宙を目指してがんばります。 
 宇宙を目指すだなんて、すごいことです。
 地球から、飛び出しちゃうんですからね。僕なんて、富士山より西にも行ったことがないのに。
 
 NHKの話に戻りますが、(きっとスピカを語るには時間が十分ではないから)
 ちょっと前、NHKは海老沢さん体制の時に、不祥事をさんざんやらかして、受信料未払い問題に発展して、信用が失墜してしまったわけですが、それがあってこその今の躍進ではないでしょうか。もっとも、僕にとってだけの躍進かもしれませんが。
 
 (あ、電話だ。ちょっと友人と飯食ってきます。中断です)

 
 いやー、楽しかった。
 復帰でございます。
 名前を載せるなということだったので(たしか)、名前は伏せておきますが、いや、ほんと楽しかった。まずは男二人で話してたんですが、けっこうビジネス的な話でそれはそれで本当に楽しかったんですが、女子が合流して、更に面白い話になりました。時間、足りなかったですね。またやりましょう。みんな近所ですし。つうか、店の人、引いてたかな、大丈夫かな(苦笑)。
 今日はそれに昼間も来訪があり、それも時間が足りずに不完全燃焼でしたが、彼女の変わりようにはびっくりしました。やっぱり、女の子は髪型ひとつで大きく変わりますね。髪型だけでなく、服装もずいぶんかわってましたが。本人にもいいましたが、これで自信をもってやっていけるでしょう!
 
 さて、それでは仕事再開でございます。朝までモードでございます。明日の午後まで仕上げないと、八月頭からの販売には間に合わなくなる!人と会って、いい息抜きになりました。ストレス解消になりました。
 
 つうか、あれ、このブログって何のこと書いてたんでしたっけ?(笑)
 
 あ、NHKね。
 とにかく、今NHKは面白いって話でございました。
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2009年07月19日

REPORT 93 寝食を忘れる


 寝食を忘れる
 
 と、いう言葉がございます。
 食を忘れるということは、たびたび体験したことがあるのですが、今まで「寝」を忘れたことなどなかったので、これは単なる誇張表現だな、と今まで思っていたのですが、ついに、僕も「寝」を忘れてしまいました(苦笑)。
 あさ、6:30に起きて、情報収集からすぐに仕事に入り、最近では普通なら25:00まで、ひどいときには26:00までやっております。一日、28時間あればいいなと心底思う所以でございます。
 それで、今日などは寝るのをほとんど忘れておりました。
 詳しく言うと、忘れたというか、勘違いしていたんですね。朝の四時半頃に寝て、普通にそのまま目覚ましセットしてたから、6:30に起きてしまったのです。起きたときにあれ、おかしいな、と思わずにそのまま仕事に突入してしまって、夕方くらくらするな、と思って、あ、そういえば四時半頃に寝たんだ、とようやく思い出したのでした。
 まさに、寝食を忘れる。
 
 そんなに何をやっているのか?
 
 たとえば今日なぞは、朝情報収集して、週の予定をカスタマイズして、それで先週中に終わらなかったホームページをひたすら制作して、そして法律関係の整備もしなければなりませんから(契約書・利用規約などで)、ジュンク堂にいって、特定商取引法や個人情報保護法、あと消費者関連法の本をひたすらに読みまくり、エッセンスだけを頭の中にたたき込み、今日はさすがに24:00越えはまずいな、と思い、お風呂の蛇口をひねって、今こうしてこれを書いている次第でございます。
 最近はこうしていても、楽しいので疲れを感じないのでございます。
 ようやく最近、手応えを感じ始めたところです。今の頑張りは絶対に将来につながるという確信が芽生えつつあり、これだから興奮して夜寝られなくなるということになり、寝られないのなら働いちゃおうということになっているのでございます。
 
 それにしても、起業とは大変だ。小さくとも、社長とは大変だ(笑)。
  他の人たちはどうしているんでしょうね? 法律や税金関連など、とてつもなく難しいことが山積し、更に柔らかな発想力をもって経営するなど、ほんと、変態ですね(笑)。みなさん、超人でございます。
 それか、お金があって、全部外注に出しているか。
 幸い、僕は行政書士の試験で法律を勉強したので、法律を読むことを苦にしないのですが、法律に関してまったくの素人だったら、きっと英文を読むよりもつらいはず。
 更に税金や、簿記に関する事なんて、イタリア人のなんとかっていう学者が編み出したやり方をひたすら覚えなければならないし、いや、ほんとにとてつもないことです。
 みなさん、これからは社長の悪口を言うのはやめましょう。
 どの会社でも、社長はきっと大変です(笑)。
 そして、毎月、決まったときに給料が振り込まれるという奇跡のような幸せをもっと噛みしめましょう。
 安いとか文句をいうとは、いったい、どういうことでしょうか(笑)。
 ボーナスをもらえるなんて、更に贅沢です。
 
 いや、でも、起業したからこその、このスリルであり、わくわく感であります。
 毎日がまるで冒険のようで、この半年を振り返っても、よくやったなーと思う次第でございます。

 
 これだけやったんだから、成功してあたりまえだよなー、と力なくひとり苦笑する。
 これだけやったんだから、成功しない方がおかしいだろう。
 
 というか、このまま一気に突き進んで突破してやる!!と今日も興奮でねられないな、と思いつつ、お、風呂できたと力ない鼻歌でございます(苦笑)


 
 まもなく、収穫の時期!!

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REPORT 92 VS.自分 

 これはきっと皆さんが実感していることと思いますが、人生における最大の障壁は「自分」ではないでしょうか。
 
 朝、思った時間に起きられない。
 ダイエットが上手くいかない。
 宿題やレポートをやろうと思ったんだけど結局はやれなかった。
 テレビを観るのをやめられない。
 欲望を抑えきれない。
 恋愛感情をコントロールできない。
 
 日々、自分との戦いかと思います。
 自分との戦いに勝てるようになると、夢の実現が確実に近づきます。着実に目的に向けて自分を薦めていけるようになる。それからが、社会との戦いであり、ライバルとの戦いであり、未知なる領域との戦いであります。無論、外部と戦いつつ、やはり内部で自分との戦いが同時進行で起きているでしょうが、自分を上手くコントロールできるようになると、外部との戦いに集中できるようになる。つまり、効率的に力を集中することができるようになり、目的が達成する確率が高くなると言うことです。
 
 繰り返しますが、まずは誇大妄想でもいいから夢を持ち、夢を持ったら自分は天才でないと認識して地に足をつけることが必要です。
 さらに、自分との戦いを制して自分をコントロールできるようになれば、今度は自分だけに見えている地平をひたすらに信じる。
 成功のプロセスとはこういった段階を踏むのではないでしょうか。自分が立つステージによって、そのステージに合うようにスタンスを変えていく必要がある。
 そして、もっとも重要なのが、情熱を持ち続けることです。周りの一般化作用に屈することなく、自分にはやらなければならないことがあるのだと、ひたすらに信じることです。諦めないことです。
 安全ネットを張るのは簡単なこと。諦めるのも簡単なこと。
 きっと、困難な道にこそ、答えがあるのだと思います。
 
 
 
 
 先日、日芸の山下先生の研究室を訪れたとき、森光子さんの話題で持ちきりでした。
 『放浪記』についてのNHKの取材があり、学生さん達と山下先生達が森光子さんにインタビューする様子が放映されるということで、実際に先日NHKの森光子特集で放映されました。
 その様子を詳しく記録した本が発売されます。
 日芸の文芸学科、江古田文学会の皆さんが発行している『江古田文学』という本です。
 興味のある方は、ぜひ、手にとってご覧ください。
 また、地方などで書店に並んでいないという場合は僕に相談ください。
 日芸の山下先生に取り次ぎます。
 また、芳林堂書店航空公園駅店ではフェア展開してもらえる予定ですので、お楽しみに。
 
 t-miura@tokyoprizeagency.com
 
 
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2009年07月18日

REPORT 91 天才の認識

 
 夢の実現は、自分が天才ではないと認識したところから始まる。
 
 僕はそう信じております。
 少なくとも、天才とは客観的な様態形容であって、自分で天才だと思った時点で急な成長は望めなくなる。
 たとえば、横綱貴乃花とは少し前に若貴ブームをおこした平成の名横綱でありますが、周囲の人達はその稽古する姿を見て、こう舌を巻いていたと言います。
「誰よりも才能があるのに、誰よりも稽古をしているから、誰も彼にはかなわない」
 おそらく、貴乃花自身は自分を天才だとは思ったことがないのではないでしょうか。
 ひたすらに自分が目指すところに向かっていただけで、気がついたら誰もが上り得ない高みへといたっていた。天才と称されたとき、そういうものなのかと、他人事に思ったかも知れません。
 
 自分が天才だと思った瞬間に、とてつもなく大きな油断が生じます。これはいけるな、とアクセルをゆるめてしまいます。時計の観念がゆるみ、時間の貴さを忘れてしまいます。つまり、危機感を失ってしまうのです。確かに、自分に自信を持つということは必要なことですが、それが過剰であると力の発揮を妨げてしまうことになる。
 断っておきますが、以前このブログで、今の若者達は誇大妄想になったくらいの方がいいと申し上げましたが、今回言っているのはそれよりも一つ進んだ段階で、夢を持った、ではどういった心構えを持てばいいか、というステージのことです。
 
 自分が天才だと認識してしまうと、天才だからいずれきっと成功すると根拠なく安心してしまい、今日の努力を怠ってしまいます。明日からやる、との決意は80%の確率で達成されないもの。本当にやるのならば、今日、この瞬間から始めなければならない。自称天才は、明日があるさ、また明日があると、無駄に明日を浪費していきます。それは英雄伝などに見られる大器の人物が持つ、楽観、プラス思考だと思われがちですが、ここで発揮される明日消費は、プラス思考などではなく、単なる油断であり、甘えであります。これでは成るものも、成らなくなる。
 一方、自分が天才ではないと認識するとは、いったい、どういうことなのか。
 自分はどうやら天才ではない。しかし、夢を実現させたい。
 こうやって自分を客観視し、地に足をつけることによって、本当の夢の実現が始まると思うのです。
 おそらく、天才とは幻想みたいなもので、あるいはプラス方面の奇形みたいなもので、まずあり得ないと考えた方がいい。
 世の中で成功している人のほとんどが、天才ではない。少なくとも、自分を天才だとは認識していない。
 天才とは客観的な様態認識であり、自分が成功しないことへのいいわけだと、成功者は知っています。
 たとえば、こう言うことで、自分とその人との愕然とするほどの能力差から生じる劣等感がすっと消えることってありませんか?
「だって、あの人はプロだから」
 これと全く同じ道理でこういうとなんだか自分の能力のなさが気にならなくなります。
「だって、あの人は天才だから」
 この言葉にはわずかにプラス方面の奇形に対する、プラス方面への差別が混じっております。
 この差別は、こういう時に混じる差別と似ています。
「あいつ、ガリ勉だからな」
 つまり、結局は天才と言う言葉は、自分で自分の能力を認識して使う場合はきわめて稀であるか勘違いで、多くは客観的に使われるものなのです。
 
 自分はどうやら天才ではない。しかし、どうしても目指したいところがある。つまり、死ぬほど努力しなければならないということだ。
 こういう風に腹をくくり、現実を見据えることで、ようやく現実的な努力を日常的に重ねられるようになります。ここからしか、成功は始まらないような気がします。
 
 
 
 さて、7月24日、飲み会を開催すると申し上げておりましたが、諸事情ございまして、少し延期させていただきたく、お願い申し上げます。
 現時点で、参加の声をかなり頂いておりましたが、本当にもうしわけございません。
 近いうちに、改めてセッティングさせていただきます。 
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2009年07月16日

REPORT 90 もてるということ

 残念ながら、僕はもてたことがございません。
 もしかして、人から見れば、もてているように見えている時期もあるのかも知れませんが、真実、もてたことがございません。自信をもって言える数少ないことのひとつでございます。
 と、言いつつ、ひがみ、やっかみをここで述べるつもりは毛頭ございません(笑)。
 30年以上ももてなかったので、いい加減に慣れました。
 ただし、まあ、女性に関してあまり困ったこともございません(笑)。
 
 とにかく、もてるということ。
 
 まず、ひとつ確認しておきたいことがございます。
 企業・会社などを「法人」と言うことがあります。法人格を得た、などと使います。
 実はこれ、単なる当て字などではなく、読んで字のごとく「法的に人とみなす」というような意味なのでございます。つまり、法人格を得たということは、これからは法的に人のように扱われるということなのです。
 ですから、いくら小さな会社であっても、個人=会社法人ではない。
 たとえば、当社(株)東京プライズエージェンシーにおいては、代表取締役は僕であり、社員が僕であり、発行可能株式総数1000株の内、現在発行している譲渡制限株式100株は100%僕が所有しており、また会社の憲法ともいうべき定款において、「株式の譲渡には代表取締役の承認を得なければならない」という制限をかけておりまるから、あたかも、僕=(株)東京プライズエージェンシーのように見えますが、実は違うのです。
 (株)東京プライズエージェンシーは4月1日に設立登記が完了した時点で、本当にこの世に誕生したわけでございます。豊島区の法務局での登記ですから、出身地は東京都豊島区となります。
 つまり、東京プライズエージェンシーという「法人」は、法的には僕とは別の「人」と見なされるわけです。
 
 何をいいたいのか?
 
 実はこの(株)東京プライズエージェンシー、僕とは違って、もてるようなのです(苦笑)。
 数ヶ月前から、営業代行の話もあり、また他の様々な法人様とよいお付き合いをさせていただいております。仕事が多くなったら、働かせてという声も前々から結構あって、生みの親「発起人」としてはなかなか鼻が高いのでございます。ですが、まだよちよち歩きで、一人歩きもできない状況です。早く、一人前になるように、日々奮闘している次第でございます。
 昨日は、以前から何かとやりとりさせて頂いている、N大学の学生さんUさんがいらっしゃいました。
 いつも他の学生さん達や飲み会などにおいて大人数でしか会ったことがなかったので、実は昨日までその人となりをあまりよく知らなかったのですが、これが実に面白い子でありました(笑)。
 外見から受ける印象と中身のギャップがあまりに劇的で、珍しいことに聞き手に徹し、彼女の話を聞いていた僕は、まるで壮大なる映画を観たように本当に楽しみました。え、こんな話もあるのか、というほどに面白かったのですが、あまりにあまりにプライベートなことなので、残念ながら詳細をここに記すことはできません(笑)。
 あっというまに時間が過ぎて、Uさんが帰る間際になって、なんと、もてる東京プライズエージェンシー君が告白を受けました。
 「どうせならやりたいことを仕事にしたいです。一緒に働けたらと思ってます」と。
 僕は代表取締役ですから、東京プライズエージェンシーの法定代理人みたいな存在です。
 ですから、そう言って頂けると本当にうれしい限りでございます。こういう風に、会社の理念をわかってくれている人と一緒に働けたら、本当に楽しいのだろうなと僕も思います。
 そのためにも、僕は本気モードで営業をかけなければなりません。
 こんどは、依頼人の方にもてる会社になるように、着実に頑張るしかありません!
 幸い、様々な方面から温かいお誘いやお言葉をいただき、手応えを感じ始めている時なので、これはもう、理想に向かって突き進むしかない!とやる気を新たにした次第でございます。
 
 いやー、外は夏らしい。たしかに、外に出ると、夏です。
 夏生まれながら、夏にめっぽう弱い僕ですが、不思議なことに今は弱っておりません。
 第一、夏バテなんて贅沢な状態になっている余裕はございません。
 季節や環境に関係なく、為すべき事を着実にこなしていくだけでございます。

 
 社員にも依頼人にも「もてる」会社になる!
 

 それにしても、これって結構わかりやすい目標かもしれませんね。いいかも知れません。
 
 
 Uさん、お土産ありがとうございました。
 あのあと、すぐに全部完食でございます(笑)。
 あと、もしこれを見ていたら、あの後どうなったか、ぜひ教えてください。
 まるで、月9のドラマのように続きが気になって仕方がありません(笑)。

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2009年07月12日

【おしらせ】ホームページの改装について

 (株)東京プライズエージェンシー、代表取締役の三浦です。
 さて、当社のホームページ(http://tokyoprizeagency.com/)ですが、このたび、システムを大幅に変更することにいたしました。今回の改装は、根本的なシステムの再構築であり、開設以来の大規模なものとなります。
 つきましては、皆様にご不便、ご迷惑をおかけすることとなりますが、そういう次第ですのでどうぞご了承くださいませ。
 また、本ブログに関してはとりあえずは今までどおり運営する予定ですので、よろしくお願いいたします。
 
 この一週間は、ホームページが表示されないこともあると思いますが、なるべく早く新システムへ移行できるように、鋭意努力いたしますので、ご容赦ください。
 なお、ホームページのアドレスは変わりません。また、メールもこれまで通り使えますので、その点につきましてもよろしくおねがいいたします。
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2009年07月10日

REPORT 89 自分カメラ

 僕は野生動物の潔さにあこがれます。
 野生動物のような潔さを持った人間にあこがれます。
 なぜなら、彼らには打算がないからです。打算がないから、彼らは美しい。
 
 たとえば、夥しい量の不幸に遭遇したとしても、悲しそうな目をしてそれを受け止め、生きるために次なる場所へと向かっていく。現実に起きたことを、それとしてそのままに受け止め、過去に拘泥することなく、明日へのと向かう。そういったものを美しいと感じます。ありのままであるから、つまり「素」であるから美しい。
 それはきっと、「自分カメラ」が働いていないからだと思います。
 皆さんは感じたことがないでしょうか?
 実にいやらしい角度で自分を捉えるカメラが存在することを。
 ここでいう「自分カメラ」とは、自分を客観視するという意味とは、ニュアンスが異なります。
 客観視とは、主観のみで視野が狭くならないように、いわば自分制御のための意図的な視界転換であって、これにおいていやらしさは感じられません。常日頃、自分を客観的に見るということは必要になる。
 けれども、「自分カメラ」とはこれとは違って、できれば作動しない方がいいものです。
 表現が悪いかも知れませんが、これは例えるならば、隠しカメラのようなもので、無意識を装い、他人の視界に自分視点を仮想し、実は意識的に自分を客観視するというやり方です。
 なんだか、表現がややこしくなって参りました(苦笑)。
 本当に簡単に一言で片付けてしまえば、それはきっと「打算」という言葉に近い。
 
 今、私って不幸、これって悲しむべきよね、泣いてもいいのよね、ああー、悲劇のヒロインよね、という風に、あえて自分を悲劇のヒロインにしたくなる性質を人は持ち合わせています。特に、「自分カメラ」が強い人にこの傾向が強い。
 また、受験勉強でもテスト勉強でもいいんですが、やけにノートをきれいな字や色で完璧にまとめて、満足していて、結局肝心のテストの点数が悪い方がおられます。これもまた「自分カメラ」が強い人に多い。ちなみに、去年あたりに流行った『東大生はノートがきれい』だの、なんだのといった本は読むべきではありません。あれは、勉強に対するアプローチがまるで違う。あとで復習する無駄を省くために、はじめからきれいに書くというもので、一般の方が誤解したままに真似をすればひどい怪我をいたします。
 とにかく、「自分カメラ」が働いてしまうと、その人の能力や成果は大幅に制限されてしまうことになります。もっとアクセルを吹かせるのに、自らでリミッターを作ってしまうようなもの。仮想の他人視点に隠し入れた「自分カメラ」からの映像を見て、自分が思ったとおりの姿であるならば、納得してしまうということが起きます。
 これならば、自分のシナリオの範疇で動くことができるので、危険はございません。それに、ある程度の余裕を持って行動できるので、自分が「クール」でいられます。
 ですが、不思議なことに本当の他人の目からは「自分カメラ」を作動させている人は決して「クール」にはみえません。他人は、意識して理論的に「自分カメラ」を看破するというよりは、半ば本能的にその人に「違和感」を覚えます。つまり、それは盗撮している人が仕込んだカメラを見つけると言うよりは、盗撮した人の目つきに違和感を覚えるようなものです。
 先ほども申し上げましたとおり、簡単に言えば「自分カメラ」とは打算です。打算がその人に通用すると考えることは、すなわちその人を見下すことであり、実は人は人に見下されることに敏感です。だから、人は「自分カメラ」を持つ人に、魅力を感じにくいのだと思います。
 逆をいえば、野生動物のような潔さを持った人には、男性でも女性でも、もてる人が多い。その圧倒的に「素」である部分に人は惹かれるらしいのです。
 
 でも、しょうがないじゃないか、どうしても「自分カメラ」が止まらないんだよ!という方、諦める必要はございません。
 打算とは、言わば甘えであり、弱さの表れであり、言ってしまえば卑怯であります。
 打算とは知性への侮辱であり、保身であります。
 けれども、打算を抱く人の多くには可能性がございます。打算を抱けるくらいなのだから、結構かしこいはずです。
 この方々が、自らのリミッターを外して、前を向き、視線をあげて自分だけの地平を追い求めるようになれば、打算は戦略へと昇華されます。
 戦略とは知性の結実であり、前に進むための光であります。
 難しい局面においては、戦略を駆使しなければ、道を打開することができなくなります。
 どの分野でも頂点付近に待ち受けているのは、死闘しかない。そこで勝ち抜かなければ本物にはなれない。打算を繰り返し、何とか自分をだましだましして生きていくしかなくなるのです。
 
 なぜこんなことを言うのか?
 もしかして、お気づきかも知れませんが、僕自身が打算に満ちた人間だからです。自分の打算に苦しんできた人間だからです。
 実は高度に仕組まれた打算とは自分をも騙し無意識に働いているもので、あとで自分の打算に気付き自己嫌悪に陥るということが多々あります。
 けれども、最近になって、打算がほとんど働いていないことに気付いたのです。つまり、「自分カメラ」がいつのまにかなくなったいた。
 なぜかと言えば、理由は簡単です。
 打算を考える余裕が、今の僕にはない(苦笑)。
 前に進むために何をすべきかを四六時中考えている内に、そしてそれに従い動いている内に、いつのまにか打算が消えていたのです。逆を言えば、この状況が崩れれば、いつでも「自分カメラ」は復活してしまうということです。
 「自分カメラ」の完全なる消失、イコール、成功だと僕は思います。
 それは、打算が完全に消えてなくなるほどに、戦略的になり、そしてそれを実行しているということに他ならないからです。
 
 たまに見かけませんか?
 自分は自分を完全に把握している、完璧に客観視できていると、言っている人。
 それぞ、まさに自分自身にリミッターをかけて、小さな庭を形成してそこでの王になっている人に違いありません。
 完璧に自分を客観視することなど、不可能なのですから。
 だって、自分は誰が好きかわかったとしても、自分を好きな人のことって案外わかりませんよね?
 意外な人が、自分を好きでいてくれるかもしれない。
 そんなことまで全部把握できたら、打算という以上に、単に気持ち悪いですよね(笑)。
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2009年07月04日

REPORT 88 少年よ、頼むから大志をいだいてください

 ウイリアム・スミス・クラークは札幌農学校の初代教頭であります。
  アメリカ、マサチューセッツ州に生まれ、アメリカとドイツに学び、南北戦争にも士官として参戦しております。専門は植物学。けれども、札幌農学校においては、英語やキリスト教などを教えました。
 その滞在期間は8ヶ月と意外に短いものでした。
 しかし、彼はこの名言において、後世の日本に名を残すことになりました。
 
  ‘Boys Be Ambitious
  「少年よ、大志をいだけ」
 
 そうです、彼こそが羊ヶ丘展望台に今も銅像が立つ、クラーク博士です。
 彼の精神を受け継いだ札幌農学校からは、やがて世界にも通用する人物が数多く輩出されることとなります。
 国際連盟事務次長を務め、五千円札の肖像にもなった、新渡戸稲造や、思想家の内村鑑三などもこの札幌農学校出身です。
 
 当時はまだ明治期で、つまり本物のサムライ達の末裔がふつうに生活していた時代です。そして、明治維新を戦い抜いた人々も生きていた。それだから、「少年よ、大志をいだけ」と言えば、心が揺さぶられ、涙を流すほどに若者達の精神は剥き出しだったのではないでしょうか。つまり、素直で敏感だったのです。
 だが、今はどうでしょうか。
 大志を抱くことが「かっこわるい」。夢に向かうことなんて、なんか「汗臭い」。情熱なんて「熱苦しい」。
 そんな、冷めた見方が大部分を占めているように思えてなりません。
 安定を求め、20代から老後を思って貯蓄する。なるべく、平坦を求め、平穏を求める。
 やりたいことではなく、おそらくやらなければならないことに従事する。
 若者たちがです。本来ならば、暗闇を切り開き、新たなる未来を創り出さなければならない若者たちがです。
 日本の若者達は、なんと、聞き分けのいい、よい子になってしまったのでしょうか。
 視野が狭くなってしまったことでしょうか。
 
 今、やらなければならないことがあることは、わかります。現実というものはあらゆる理想を阻もうとする。
 
 でも、「本当にやりたいこと」はなんですか?
 それを、「本当はやりたかったこと」にしてしまって、本当にいいんですか?
 
 きっと、それぞれの方に、「本当にやりたいこと」があるはずです。
 ただ、何かしらつまらない理由をつけて、それに挑むことを自ら抑制してしまっている。
 大人になったつもりで、現実をわきまえたつもりになって、自らの限界に挑もうとしない。
 
 僕は現代を一億総鬱の時代だと思っております。
 この時代、物理的、現実的な引きこもりだけではなく、目に見えない精神的な引きこもりというものがあります。目に見えずに気づかない分、こちらの方がよほど質が悪い。
 その人達は普通に社会で生活をし、つまり学校にいったり会社にいったりし、端から見れば引きこもりでもなんでもないのですから。
 自分に問いかけてみてください。
 自分は本当に引きこもりではないか? 自宅の薄暗い部屋ではなく、他の目に見えない何かに引きこもってはいないか?
 そうすると、ほとんどの方が思い当たるのではないでしょうか。
 実は、社会の本当に狭い部分に自分は引きこもっているのだと。
 そこで、つまらない「いす取りゲーム」を日々繰り返し、人生を摩耗しているだけだと。
 映画の『マトリックス』で、全人類のほとんどが仮想世界を生きていたようなことが、現実に起きているのかも知れません。
 
 本当にそれでいいのでしょうか?
 リチャード・ドーキンス博士が『利己的な遺伝子』において論旨を展開したように、人間は遺伝子を後世に運ぶ乗り物に過ぎないのでしょうか? 根の生えていない植物に過ぎないのでしょうか?
 
 このブログを読んでくれているのは、圧倒的に若い世代が多いようです。
 だから、あえて言わせて頂きます。
 
 自らの理想を唱えてみてください。
 はじめは声に出さなくていい。紙に書かなくてもいい。
 頭の中で、唱えてみてください。
 自分は本当は何をしたいのか、どうなりたいのか。
 夢や理想というものは、思い描くところから始まります。
 空想なくして、夢の実現はあり得ないと思います。
 
 同じ事を繰り返し言います。
 
 あなたの夢はなんですか?
 それは本当に実現できないものなのですか?
  
 大丈夫、これを読んでいる皆さんがすべて自分の理想に向かったところで、社会は壊れません。むしろ、諸君の奮闘によって世の中がほんの少しだけ良くなるかも知れません。
 
 たとえば、僕は美しいものだけを信じます。
 自分自身が美しいと感じたものだけを信じます。
 それが、夢を思い描く上での重要な根源となっています。
 つまりそれは、僕は自らが信じる美しいものを実現したいということなのです。
 何らかの業界でトップに立ちたい、文芸や音楽などの様々な分野のヒットチャートを覆したい、よりよい政治の世界が形成されるのを見たい。
 そういった、一つ一つの目標は、「自らが信じる美しいものを実現したい」という大元からの派生に過ぎません。
 
 おそらく、皆さんにも自らが信じる美しいものがあると思います。
 それを実現したいという想いが、志であり、夢なのではないでしょうか。
 
 前にこのブログでも書きましたが、司馬遼太郎先生の奥さんはこう危惧されておられました。
「司馬の作品は、若者たちを誇大妄想家にしてしまうから」
 これは一昔前の話です。今現代の多くの若者たちには当てはまりません。
 今は逆に現実に即しているのならば、一度みんな誇大妄想家になってしまった方がいい。
 ここで言う誇大妄想とは、秋葉原や茨城での連続殺人の犯人のような、二次元における誇大妄想のことを言っているのでは、もちろん、ありません。あくまで「現実に即した」誇大妄想のことです。
 
 実は、現実の世界で理想を抱くというのは、けっこうな勇気がいることです。
 周りの知ったかぶりが冷めた態度で、
 「へえ、君、夢なんかみてるんだ。実現すると信じているんだ」
 などと言ったときには、自分が間違っているのではないか、恥ずかしいことを言っているのではないかと、錯覚してしまいがちになります。
 何せ、夢を真剣に目指している人というのは、実は圧倒的なマイノリティーなのですから、それは当然の話です。
 この世間の視線、常識と呼ばれる障壁を打ち破ることが、まずは夢を抱く上で必要となることかも知れません。
 
 でも、仲間がいればどうでしょうか?
 まわりに、自分が成功すると本気で信じている仲間がいれば、自分もやれる気になりませんか?
 
 僕が関わるシークレットサークル“SIGRE-HIKO”とはまさにそういった集まりです。
 一億総鬱放射能が蔓延している現代の社会における、シェルターと言ってもいい。
 今はまだ認定している人たちは少ないですが、彼ら、彼女らも日々迷いながら、夢の灯火が消えないように、懸命に戦っています。 自分が本当は何者なのかを証そうと、努力を続けています。
 かくいう僕自身も、夢を実現しようとしている同志の一人に過ぎません。
 翻って考えてみると、ここに書いたことは、まだ僕が成功していないから言えることなのかも知れません。
 
 こんな僕さえ、やろうと頑張っているんだ。より優秀な君たちができないはずがない。
 
 目に見えない銃弾が飛び交う戦地に身をさらしているからこそ言えることなのかも知れません。
 そして、これだけは言える。
 僕は今まで理想を捨てたことが一度たりともないと。
 
 これを読んでいる多くの人が、僕より優秀です。
 たとえれば、僕よりも遙かに性能のいい車に乗っている。
 もし、僕が人生のレースにおいて、何らかの成功を手にすることができたのなら、君たちにできないはずがない。
 つまり、率先して僕が成功しなければと改めて思うわけです。 
 
 そして、夢を持った人はもちろんのこと、理想を持ちたいが迷っている方、本当に進むべき道はこれなのだろうかと今の段階では志を明確にできない方も、遠慮なく僕にメールなり電話なりでアプローチしてください。
 何らかの力になれるかも知れません。
 少なくとも、何らかのきっかけにはなると思います。
 
 t-miura@tokyoprizeagency.com
 
 
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2009年07月03日

REPORT 87 おくりびと

 血の流れ出る傷口を押さえるように、目にハンカチを当てて、息を整え、静かに涙がおさまるのを待つ……。
 
 久々に映画『おくりびと』を観て、案の定、号泣でございます(笑)。
 なんていい話なんだろう!
 なんていい音楽なんだろう!
 
「ずっと夢だと思っていたことが、本当は夢ではなかった」
 
 プロのチェロ奏者を目指していた主人公もっくんはそう言って、夢を諦め、東京を後にします。
 ひろすえ妻と一緒に故郷の山形に帰り、流れで納棺師になるのですが、ああ、本当にいい話だ。
 また、泣けてくる、困ったことに(笑)。
 
 もちろん、去年映画で観て、いたく感動していて、3月にDVDが出たのも知っていたのですが、僕は号泣するのが怖くて、あえて今まで観ていなかったんです。
 音楽が流れてくるだけで、泣けてくる。あのチェロの曲は反則です。
 静かな曲で、まさに川が流れるように曲が流れ、それで流れが急になったかと思うと、そのまま駆け上がるようにサビの部分に入って、高い音域でまた流れるように流れる。
 久石さん、やはり天才です。宮崎監督の作品が名作なのは、言うまでもなく久石さんの音楽があってこそ。
 きっと、天才は天才を呼ぶのでしょう。才能は才能を呼び、本物は本物を呼ぶ。
 きっと、そういうことがあるのだと思います。
 日米共にアカデミー賞の選考委員はだてじゃないですね。
 
 ひとつ、「おくりびと」のシーンで気になるところがありました。
 『天地人』の秀吉役でもおなじみの笹野高史が火葬場の職員として出ているんですが、彼が映画の中でこう言うんです。
「死とは門をくぐることだと思うんです」
 つまり、死とは通過点に過ぎないと。
 これに僕は違和感を覚えました。
 まあ、ちょうどこのシーンがきっかけになっただけで、世の中の多くの場面で遭遇することなので、今更という感じではあるのですが、僕はこのシーンを観て、ふとこう思ったのでした。
 なぜ人はこうも死後の世界を思うのだろうかと。
 現世を精一杯生きればいいではないか。
 現世で精一杯愛すべき人を愛せばいいではないか。
 愛している、好きだと言ってやればいいではないかと。
 
 少なくとも、僕は余力を残して死にたくはありません。
 死の床にあって、いやー、よく生きた、これ以上は無理だった、けっこう面白かったって思って死にたいものです。
 それで家族などがその場にもしいれば、
「さらばだ。おれは十分君らを愛したよな? おれも十分愛された。本当にありがとう。満足な人生だった。じゃあ、これで本当にお別れだ」
 と言って去っていきたい。まあ、しゃべることができれば、だけれども。まあ、遺言、という手もあるけれども。
 とにかく、来世も一緒にとか、生まれ変わったら、とか考えたくありません。
 もういいよ、生涯かけて愛したから、十分生きたから、と笑いたいものです。
 人、それぞれでしょうが、もしかしてこれが僕の宗教観なのかも知れません。
 
 宗教観と言えば、そう言えば松陰神社にお礼参りにいかないとな、と思いつつ、さあ風呂だ、と鼻歌になっているのでございます。
posted by 発起人 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記