2009年07月10日

REPORT 89 自分カメラ

 僕は野生動物の潔さにあこがれます。
 野生動物のような潔さを持った人間にあこがれます。
 なぜなら、彼らには打算がないからです。打算がないから、彼らは美しい。
 
 たとえば、夥しい量の不幸に遭遇したとしても、悲しそうな目をしてそれを受け止め、生きるために次なる場所へと向かっていく。現実に起きたことを、それとしてそのままに受け止め、過去に拘泥することなく、明日へのと向かう。そういったものを美しいと感じます。ありのままであるから、つまり「素」であるから美しい。
 それはきっと、「自分カメラ」が働いていないからだと思います。
 皆さんは感じたことがないでしょうか?
 実にいやらしい角度で自分を捉えるカメラが存在することを。
 ここでいう「自分カメラ」とは、自分を客観視するという意味とは、ニュアンスが異なります。
 客観視とは、主観のみで視野が狭くならないように、いわば自分制御のための意図的な視界転換であって、これにおいていやらしさは感じられません。常日頃、自分を客観的に見るということは必要になる。
 けれども、「自分カメラ」とはこれとは違って、できれば作動しない方がいいものです。
 表現が悪いかも知れませんが、これは例えるならば、隠しカメラのようなもので、無意識を装い、他人の視界に自分視点を仮想し、実は意識的に自分を客観視するというやり方です。
 なんだか、表現がややこしくなって参りました(苦笑)。
 本当に簡単に一言で片付けてしまえば、それはきっと「打算」という言葉に近い。
 
 今、私って不幸、これって悲しむべきよね、泣いてもいいのよね、ああー、悲劇のヒロインよね、という風に、あえて自分を悲劇のヒロインにしたくなる性質を人は持ち合わせています。特に、「自分カメラ」が強い人にこの傾向が強い。
 また、受験勉強でもテスト勉強でもいいんですが、やけにノートをきれいな字や色で完璧にまとめて、満足していて、結局肝心のテストの点数が悪い方がおられます。これもまた「自分カメラ」が強い人に多い。ちなみに、去年あたりに流行った『東大生はノートがきれい』だの、なんだのといった本は読むべきではありません。あれは、勉強に対するアプローチがまるで違う。あとで復習する無駄を省くために、はじめからきれいに書くというもので、一般の方が誤解したままに真似をすればひどい怪我をいたします。
 とにかく、「自分カメラ」が働いてしまうと、その人の能力や成果は大幅に制限されてしまうことになります。もっとアクセルを吹かせるのに、自らでリミッターを作ってしまうようなもの。仮想の他人視点に隠し入れた「自分カメラ」からの映像を見て、自分が思ったとおりの姿であるならば、納得してしまうということが起きます。
 これならば、自分のシナリオの範疇で動くことができるので、危険はございません。それに、ある程度の余裕を持って行動できるので、自分が「クール」でいられます。
 ですが、不思議なことに本当の他人の目からは「自分カメラ」を作動させている人は決して「クール」にはみえません。他人は、意識して理論的に「自分カメラ」を看破するというよりは、半ば本能的にその人に「違和感」を覚えます。つまり、それは盗撮している人が仕込んだカメラを見つけると言うよりは、盗撮した人の目つきに違和感を覚えるようなものです。
 先ほども申し上げましたとおり、簡単に言えば「自分カメラ」とは打算です。打算がその人に通用すると考えることは、すなわちその人を見下すことであり、実は人は人に見下されることに敏感です。だから、人は「自分カメラ」を持つ人に、魅力を感じにくいのだと思います。
 逆をいえば、野生動物のような潔さを持った人には、男性でも女性でも、もてる人が多い。その圧倒的に「素」である部分に人は惹かれるらしいのです。
 
 でも、しょうがないじゃないか、どうしても「自分カメラ」が止まらないんだよ!という方、諦める必要はございません。
 打算とは、言わば甘えであり、弱さの表れであり、言ってしまえば卑怯であります。
 打算とは知性への侮辱であり、保身であります。
 けれども、打算を抱く人の多くには可能性がございます。打算を抱けるくらいなのだから、結構かしこいはずです。
 この方々が、自らのリミッターを外して、前を向き、視線をあげて自分だけの地平を追い求めるようになれば、打算は戦略へと昇華されます。
 戦略とは知性の結実であり、前に進むための光であります。
 難しい局面においては、戦略を駆使しなければ、道を打開することができなくなります。
 どの分野でも頂点付近に待ち受けているのは、死闘しかない。そこで勝ち抜かなければ本物にはなれない。打算を繰り返し、何とか自分をだましだましして生きていくしかなくなるのです。
 
 なぜこんなことを言うのか?
 もしかして、お気づきかも知れませんが、僕自身が打算に満ちた人間だからです。自分の打算に苦しんできた人間だからです。
 実は高度に仕組まれた打算とは自分をも騙し無意識に働いているもので、あとで自分の打算に気付き自己嫌悪に陥るということが多々あります。
 けれども、最近になって、打算がほとんど働いていないことに気付いたのです。つまり、「自分カメラ」がいつのまにかなくなったいた。
 なぜかと言えば、理由は簡単です。
 打算を考える余裕が、今の僕にはない(苦笑)。
 前に進むために何をすべきかを四六時中考えている内に、そしてそれに従い動いている内に、いつのまにか打算が消えていたのです。逆を言えば、この状況が崩れれば、いつでも「自分カメラ」は復活してしまうということです。
 「自分カメラ」の完全なる消失、イコール、成功だと僕は思います。
 それは、打算が完全に消えてなくなるほどに、戦略的になり、そしてそれを実行しているということに他ならないからです。
 
 たまに見かけませんか?
 自分は自分を完全に把握している、完璧に客観視できていると、言っている人。
 それぞ、まさに自分自身にリミッターをかけて、小さな庭を形成してそこでの王になっている人に違いありません。
 完璧に自分を客観視することなど、不可能なのですから。
 だって、自分は誰が好きかわかったとしても、自分を好きな人のことって案外わかりませんよね?
 意外な人が、自分を好きでいてくれるかもしれない。
 そんなことまで全部把握できたら、打算という以上に、単に気持ち悪いですよね(笑)。
posted by 発起人 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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