2009年08月07日

REPORT 100 系統の麒麟児

 リチャード・ドーキンス博士は自著『利己的な遺伝子』において、科学的にこういった論旨を展開しておられます。
 
 生物とは遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎない。
 生物の変容形態である人間もその例外ではない。
 
 僕は正直言いますと、神仏を尊ぶ人間ではございません。それに安易な虚無主義をうたいあげる種類の小説も好みません。ですが、昔からアインシュタインやホーキング博士に憧れていたせいか、科学にはめっぽう弱いのです。理路整然と科学的にこれこれこうなんだよ、と説明されると、あ、そうなのか、と素直に納得してしまいます。
 この本を読んだときもそうでした。科学的根拠に基づいているだけに、論旨にぶれはなく感傷すらなく、淡々と虚無主義を説いているのですが、これに抗弁できない自分がおりました。
 あ、そうなのか、人間とは遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎないのか。
 どれだけ頑張っても、それなら意味がないじゃないか。
 
 たとえば、トルストイの『戦争と平和』的なニヒリズムがあったとします。それはナポレオンがいなければ、ただ名前の違うナポレオンがその穴を埋めるだけだという考え方で、それはちょうど司馬遼太郎の竜馬がいたから日本が変わったというロマン主義の対極にあるスタンスです。
 このブログでも何度か取り上げましたが、司馬遼太郎はトルストイ的なニヒリズムを百も承知の上で、あえて「否」を唱えたのでした。
 いや、違うでしょう。ナポレオンがいたから時代は変わったのだよ、と。
 
 ところが、科学に対してはこう簡単に反論することができません。
 確かに考えてみればそうなのです。
 これはチャールズ・ダーウィンの進化論の考え方なのですが、何代かに一度、アトランダムに突然変異が起きることによって、種は確かに繁栄するのです。
 突然変異と聞けば、難しいように思えますが、これを「変わり者」と置き換えればわかりやすいだろうと思います。
 大津波などの不可抗力の大災害が発生したとして、住みやすい平地ばかりに済んでいれば、人は簡単に全滅します。普段は「変わり者」と称される、山奥に済む人がいるからこそ種は保存させる確率が高くなるのです。
 それもやはり遺伝子が生き延びる可能性を高めるために、乗り物を定期的に変質させたためだと考えれば説明がつきます。
 そもそも、進化とは周囲の条件に合うように自らの形態を変化させるということで、進化が本当にそのように起こっているのなら、リチャード・ドーキンス博士の論旨はやはり正しいのだと結論づけざるを得ません。もっとも、神がアダムとイブをつくり、そこから人類が始まったとする聖書を信仰する、キリスト教徒の方々ならば、進化論を認めない立場なので、この虚無主義に悩む必要はありませんが。
 
 それでは未来へと効率よく運ばれた遺伝子とは、いったい、未来の果てに何を見るのでしょうか。
 だいぶ、宗教的、哲学的な話になってきましたので、深くは追究しませんが、太陽の寿命はあと10億年だという説がございます。それが正しいのであるならば、我々の更なる進化形態が宇宙に完全に定住することがなければ、遺伝子はそこで最後の瞬間を迎えます。そうでなくとも、大きな天変地異などできっとその前に我々の遺伝子を受け継いだ、最後の一人というものが必ず存在するはずなのです。それはたとえば絶滅危惧種トキの最後の一体のような存在です。
 我々の最後の子孫は、果たしてその最期の瞬間に何を見るというのでしょうか。あるいは、死に対するただ単純な恐怖であったり、絶望であったりするのかも知れません。だとすれば、遺伝子のリレーはなぜ行われる必要があったのか、意味があったのか。
 この大いなる虚無を覆い隠すための人類の偉大なる発明が、宗教だと僕は考えます。
 ただし、僕は宗教を信じる人間ではありませんので、そう単純に考えを終えるわけにはいきません。
 それに、それが生命の宿命だ、あることに意味がないのだ、と言われたとしても、性格上、唯々諾々とうなずくわけには参りませんので、僕は生命の宿命に抗い続けます。
 つまり、ロマンを持ち続けようと思うのです。
 
 それは飛べると本気で信じて、重力に抗うように、無謀なことかも知れません。
 または、遺伝子を効率的に運ぶことに、もしかして大きな意義が隠されているのかもしれません。
 ただし、その遺伝子の壮大な「乗り物計画」に、はいそうですか、と簡単に乗っかってしまうわけにはいかないのです。
 
 こんな考え方があるかも知れません。
 自分の代で、夢を実現できなかったから、子の代、孫の代で夢をかなえようと。
 これはこれで、生物の宿命に対する壮大な反抗であると考えます。ロマンの一つのかたちなのだと思います。
 
 ただ、個人的に僕が好むのはこのような考えではありません。
 猿はもとより、ネズミやミジンコだった時代から連綿と受け継がれてきた遺伝子が自らの内に息づいているとすれば、自分がその系統があった意義を証す存在になったとしてもいいではないか。つまり、それは系統の麒麟児となって、世の中に勝負をかけようという意味です。その系統のある一つの最終結論として、何らかのことを成し遂げようとしてもいいではありませんか。
 
 おそらく、人は何ものかに対する反抗の意志を感じ取るとき、ロマンを感じるのだと思います。
 時代に対する反抗。常識に対する反抗。そして、遺伝子の宿命に対する反抗。
 ロマンとは、壊れやすいからロマンであり、非業に終える確率が高いからこそ、まるで流星のようにその光が際立つものです。
 たとえ、生命の宿命に対して何ら反逆的成果を期待できなかったとしても、ロマンに輝いたことには意義があると思います。
 
 
 さて、何を言いたいのか。
 ここで、僕が自分の夢は普通に家族を持ち、普通に暮らすことだと言ったとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか。おそらく、気が抜けることと思われます。心が膝かっくんされたような状態になると思われます。お怒りになるだろうと思われます。
 できれば、僕は普通にしたいのです。これは意外に思うかも知れませんが、小さな頃から変わらず思っていたことでした。
 ところが、性格がそれを許さないのです。何かに挑戦し続けていなけば気が済まない。そうでなければ、生きた心地がしない。ある種の変態なのかも知れません(苦笑)。
 それ故に、温かい家庭を持つことに強烈に憧れます。
 それを言うと、驚かれたり、ひどいときにはがっかりされたりするのですが、真実そうなのです。
 
 今日は、商談でお会いした方に、僕の理想を見ました。
 この方も様々若い時分にチャレンジし続けた人で、必然に吸い寄せられるようにして、現在の幸福を手にしておられるのですが、その方の話を聞くに、やはり僕の理想は普通の家庭なのだとつくづく思い知りました。当社が提供する自分史制作サポートサービス「エバーストーリー」も温かい家庭というものが基盤に存在すると、燦然と輝くようになっています。
 ブログに書かせて頂くとすでに本人に申し上げておりますので、その方、0さんについて少々書かせていただきますが、彼は若い時分、音楽の世界で成功しようと本気で努力されてきました。このブログを読まれている方は、これを聞いてデジャブ的な感覚を味わっておられるかも知れませんが、以前に登場したB社のT社長も同じような道を歩まれております。つくづく、こういう方々に縁があるのだと思います(笑)。
 それでOさんは広告業界で信頼を勝ち得て、更にヘッドハンティングされて現在の会社に移籍することになるのですが、その間にOさんが得た最大のものと言えば、家庭でした。
 家族の事を考えると、仕事も集中してできて、成果が出るんですという彼の言葉を心底かっこいいと思いました。家族のために、仕事とプライベートのバランスも考えている、というような趣旨のこともおっしゃってました。ま、Oさんについても、何日も徹夜したがむしゃらな日々があって、今があるのですが。
 仕事もできて、しかもプライベートも充実している。
 まさに、僕が理想とするところです。
 おまえもやればいいじゃないか、何度もチャンスがあったじゃないか、と方々から大きな声が多数聞こえてきそうですが、これがなかなかできないのであります(苦笑)。
 
 あるいは、僕は麒麟児になりたい、というよりは麒麟児にならざるを得ないのかも知れません。
 ただし、ロマンに対して、しびれるような想いを持っていることは間違いありません。
 ひるがって考えてみれば、僕はこのしびれるような想い中毒になっているのかも知れません。
 だから、到底普通の幸せを得ることができない。誰かに指摘されたようにドMなのかもしれません(笑)。
 
posted by 発起人 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記